【カンボジア】負の遺産、トゥール・スレン虐殺犯罪博物館(S21)から紐解く、カンボジアの血塗られた歴史と今後の課題




どうも、SHU(@kitajimashuichi)です。

2018年9月9日から9月16日にかけて7泊8日で、仕事の関係でカンボジアに行ってきました。カンボジアの観光地と言えばアンコール・ワットとかが有名なのですが、今回はあえてトゥール・スレン虐殺博物館(通称:S21)という場所に行ってきました。

「えっ?虐殺博物館!?何それ?怖い。」と思われる方も多いと思いますが、せっかくカンボジアに訪れて、この歴史を知らない方が逆に私は怖いなと思いました。トゥール・スレン虐殺博物館を知らずにしてカンボジアは語れません。

今回は、トゥール・スレン虐殺博物館からカンボジアの血塗られた歴史と今後の課題を、私なりに紐解いて紹介したいと思います!

 

はじめに:ポル・ポト政権について

今から約40年前、ポル・ポトという政治家がカンボジアの政権を支配していました。

ポル・ポト政権の政策は「原始共産主義」というもので、原始時代のような階級や格差のない平等な社会を目指すという考え方です。

「知識は人々の間に格差をもたらす」という考えから、「国を指導する我々以外の知識人は自国には不要」という考えに繋がり、教師や医者、技術者など知識のある人は大量に虐殺されました。

 

トゥール・スレン虐殺博物館について

現在のトゥール・スレン虐殺博物館は、もともと1960年頃に学校の校舎として建てられました。その後、1975年から1979年の約4年間、ポル・ポト政権下の収容所として使用されました。当時は存在そのものが秘密であったため公式名称がなく、ポル・ポト政権が終わった後から地名をとってトゥール・スレン収容所という名前で呼ばれるようになりました。当時、カンボジア国内にはこういった収容所が他にも各地に約96ヶ所もありました。

トゥール・スレン収容所は、ポル・ポト政権時には1㎢ほどの広さがありましたが、現在はその一部が博物館として残っています。博物館はA・B・C・D棟の4つ建物があります。A棟は主に尋問や拷問を行う場所として使用され、B・C・D棟は独房として使用されていました。

博物館に入ってすぐの場所に白いコンクリートで出来たお墓があります。このお墓は、ポル・ポト政権の終わりに殺された囚人たち14名(男性13名・女性1名)のお墓です。

ベトナム軍が近くまで来たことを知ったポル・ポトはトゥール・スレン収容所が発覚することを恐れ、14名の囚人を殺してから逃げたそうです。数日経った後、遺体の異臭からベトナム人のジャーナリストによってこの場所が発見されたと言われています。

トゥール・スレン収容所に収容されている間は足枷を付けられ、独房には鍵をかけられ、自由がなく、外に逃げる事はもちろんできず、自殺することもできず、自白するまでここから出られる事はありませんでした。

「捕まえた囚人をすぐに殺さないのはなぜか?」

それは捕まえた1人だけではなく、その周りの人間も殺すためです。「仲間は何人いるのか?」「どこにいるのか?」等の情報を集めるために尋問・拷問を繰り返します。

収容所の中では、ご飯も満足に摂る事は出来ません。1日2食の薄いお粥だけでした。薄いお粥だと、たとえいっぱい食べたとしても力をつける事は出来ません。だんだん痩せ細り、病気で亡くなってしまう人もいたそうです。ポル・ポト政権時、カンボジア国内では200万人が亡くなりましたが、その全部が殺されたわけではなく、栄養失調や病気で亡くなった人もいました。

 

ポル・ポト政権の考える知識人とは?

冒頭で、教師や医者、技術者など知識のある人は大量に虐殺されたと書きましたが、そもそもポル・ポト政権の考える知識人とは何なのか?

教師や医者はもちろん知識人とされていましたが、その他にも以下のような人たちも驚くような理由で知識人と判断され殺されていました。

ポル・ポト政権の考える知識人とは?
  • メガネをかけている人(勉強して目が悪くなった)
  • 髪の毛がない人(勉強をして頭を使ったから髪が薄くなった)
  • 手がきれいな人(農作業をしていない つまり勉強している)
  • 文字が読める人
  • 海外に行ったことがある人

知識がある人はポル・ポト政権から逃げる事はほとんどできませんでした。知識人が100人いたとすると、知識がある事を隠して生き残る事が出来た人は15人で、残りの85人は殺されていました。

 

実際に独房に収容されていた方の話

独房として使用されていたB棟は、レンガなどでつくられていた仕切りを壊して写真などを展示していますが、C棟は当時のまま残されています。

実際に独房に収容されていた方の話を聞きました。

チュンメイさんの話

ある日突然…

チュンメイさんはメカニック(整備士)で、ポル・ポト軍のために壊れたエンジンなどの修理をしていました。

しかし、ある時CIA関係者だと思われ逮捕されました。そして、12日間程A棟の3階で朝から晩まで何時間も尋問・拷問を受けました。

はじまる尋問…

「あなたがCIAのメンバーになったのはいつからですか?」

「あなたの仲間は何人いるのですか?」

「どこにいるのですか?」と尋問は続きます。

「私は関係ありません。知りません。」と答えても、看守たちには信じてもらえません。

チュンメイさんは更なる拷問を受けました。

拷問内容…

まず、背中や手を鞭で打たれました。

夜寝ている時に鞭で打たれた所が痛くて少し動くと、繋がれている枷の鎖の音がして看守が来てしまうので、拷問された所が痛くても動くことを我慢しなければなりませんでした。

繰り返されれる拷問、嘘の自白…

次に、親指の爪をペンチで抜かれ、アルコールをかけられました。激しい痛みに彼は暫く意識を失いました。意識が戻ると再び尋問されました。それでも認めないので、看守たちはチュンメイさんの耳に電気ショックを与えました。

繰り返される尋問・拷問に耐え切れず、とうとうチュンメイさんは看守たちに尋問されるとおりに、「はい。私はCIAのメンバーです。」と嘘の自白をしてしまいました。

その後、チュンメイさんは別の所に移されました。

訪問者…

次の日、チュンメイさんに「あなたはメカニックですね?」と尋ねてきたスタッフがいました。チュンメイさんが「はい。そうです。」と答えると、「タイプライターが壊れてしまって使えないので直して欲しい。」とそのスタッフが言いました。壊れたタイプライターを見てみると、ネジが1つ足りない事に気付き、直す事が出来ました。

このことがきっかけで、彼を残してほしい(=まだ殺さないでほしい)ということになり、すぐには殺されず、壊れたエンジンなど機械の修理をして過ごしていました。

ついに…

そうしているうちに、プノンペン市内にベトナム軍が入ってきました。ポル・ポト軍はベトナム軍と戦争をしたくなかったので逃げ出しました。その際に、中に残っていた囚人やスタッフなどもまとめて逃げました。逃げる途中、別のグループとの争いが起きました。その時にチュンメイさんは逃げ出し、おかげで生き残る事が出来ました。

生き残ったのはチュンメイさんを含めて7名です。その後、病気などで亡くなり、現在は2名になってしまいましたが、2人は今もお元気で収容所では直接お話を聞く事も出来ます。

この収容所にはもともと2万人いましたが、生き残ったのは5人の子どもと7人の大人だけでした。しかし、最近の調査では、大人は12人生き残ったとのデータもあります。もっといたのではないかとも言われています。

生き残った7人はそれぞれ専門(メカニック、大工、彫刻師、画家2人、ベトナム語通訳、エンジニア)があり、ポル・ポト軍が技術者として使っていたので殺さずに残されていました。当時の拷問の様子などが描かれた絵が展示してあるのですが、それらは生き残った画家の人が描いています。

チュンメイさんが辛い記憶を掘り起こしてまで伝えている事を、私たちは受け継いでいくべきなのだと確信しました。

 

おわりに:ポル・ポト政権崩壊後…

ポル・ポトは病気で1998年4月に亡くなりました。ポル・ポトが亡くなってから、カンボジアは平和になりました。つまり、カンボジアは平和になってから20年しか経っていないという事です。

当時刑務所の総長だった者は、今も生きていて刑務所に入っています。当時の国家元首やナンバー2といわれた国会議事堂の議長だった者は、終身刑の判決を下されましたが、控訴し今も裁判を行っています。遠い昔の事ではないということが感じ取れます。

ポル・ポト政権崩壊後、国民の85%が14歳以下でした。それだけ大人が殺されたという事です。もちろん知識人もいないわけですから、教育制度は崩壊し、子どもたちは満足に教育を受ける事が出来ません。このことが、カンボジアの教育現場に今も影響を与えています。この悲しい歴史の犠牲になっている子どもたちに、きちんとした教育を受けて欲しいと改めて思い、お金や物だけではなく「教育」の支援の大切さをこのトゥールスレン収容所から感じる事が出来ました。